にーやんのブログ

三振したにーやんが再ローを経て司法試験に合格した弁護士の物語である

違憲審査基準論における目的手段審査の覚書。の巻

一部、補足(2016/01/24)

昨日、ロースクールの親友に憲法の質問をされた。
それは、伊藤たける氏のブログを見ての質問だった。

 

ameblo.jp

 

どう説明すればいいのか迷ったけれども、せっかく元試験委員の先生に授かった知識なので、最近の文献を参照しながら説明しておこうと思う。
ここでは、試験対策的な観点から、伝統的な芦部・高橋型の審査基準論を前提に、必要な限度での理解に努める。

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1 理解すべき法令の審査基準の類型
まず、伝統的な審査基準論。

  1. 厳格審査基準
  2. 中間審査基準(厳格な合理性の基準
  3. 合理性の基準

ここでは、(これまでの)通説に従って、法令の目的手段審査については、基本的に上記の判断枠組みで考える。
LRAの基準を含めたうえで、たける氏は以下のような表を示している。
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これは、芦部先生が晩年によく使われていた、以下の表に従ったものと思われ、これ自体は一般的なものといえる。
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結論からいえば、個人的には、①厳格審査基準、②中間審査基準、③合理性の基準の3つの審査基準さえ押さえておけばよいと考える。その上で、LRA基準は、①と②で考慮できるときに考慮するというように、柔軟に使う。その意味で、LRA基準そのものは、独立した審査基準と捉えない。違憲性・合憲性の推定は通説の考えに従うが、これは審査基準の問題と区別すべき問題である。これは、以下の高橋説に依拠する。

試験対策的観点からみると、たける氏による上記で示されたLRAの基準の位置付けについては、(すでに、市川正人教授により、この点は指摘されているところでもあるが)少し疑問を容れる余地がある。
例えば、高橋和之立憲主義日本国憲法』131頁(有斐閣,第3版,2013年)では、以下のように記述されている。

 中間審査基準は,目的審査においては,立法目的の重要性・実質性を要求し,手段審査では目的と手段との「実質的関連性」を要求し,具体的には「人権を制約することがより少ない他の方法」(Less Restrictive Alternatives,日本ではLRA基準と呼んでいる)がないことを要求することが多い。もっとも,LRA基準の適用の仕方における厳格度は柔軟で,厳格審査基準における手段審査に用いられることもある。

ここでは、中間審査基準とLRA基準とを別個のものと捉えていない。それどころか、LRA基準は中間審査基準だけでなく、厳格審査基準における手段審査にも用いられる可能性も指摘されている。
そもそも、LRA基準(より制限的でない他の選びうる手段の基準)は、その言葉どおり、手段についての基準であって、必ずしも目的について述べるものではないのであるから、当然といえば当然である。
にもかかわらず、たける氏のみならず、支配的な学説においても、経済的自由のうち消極目的規制については中間審査基準とし、精神的自由のうち例えば表現の自由の内容中立規制についてはLRA基準によるとして、両者を区別しつつ、前者では合憲性が推定され、後者では違憲性が推定されるという点で区別されるとしている(高橋和之他『憲法Ⅱ』307,309頁〔野中俊彦〕(有斐閣,第5版,2012年))。
たける氏は上記の表においてLRA基準における目的は重要であることを前提としているが、これは中間審査基準で目的が重要であることを要求していることの平仄を合わせるためのものであろう。その意味では、ここで使われている「LRA基準」は少し特別な意味合いがあるといえる。
しかし、上述の高橋教授が指摘するように、「LRA基準=目的重要」という公式が必然であるわけではない。

これは、LRA基準をどう考えるべきかという、概念設定の問題ともいえる。
LRA基準は手段審査基準に過ぎない。そう考えれば、必ずしも目的審査基準がLRA基準では「重要」とはならないといえる。つまり、目的審査基準との関係がLRA基準においては自明とはいえない。
この点は、芦部憲法においても、LRA基準における目的について、「立法目的は表現内容には直接かかわりのない正当なもの(十分に重要なもの)」と記載しており、「正当」という言葉と「重要」という言葉が使われており、必ずしも目的審査基準が明確とはいえないことからも明らかであろう。

別にLRA基準をどう位置付けようが、それが概念設定の問題に過ぎないのならば、試験対策的観点から整理すべきだろう。
ということで、ここでは、上述の高橋説の理解によるべきと考える(下記のとおり、これは通説でもある)。よって、たける氏とは異なる整理となる*1

つまり、LRA基準という別立てに基準を考えるのではなく、それは中間審査基準において考慮すべき手段審査の基準と位置付けるということである。
なぜなら、このような単純化は思考経済的によいというだけでなく、以下のとおり、判例の立場とも整合的だからである。また、たける氏のいうLRA基準が表現内容中立規制にのみ使う基準とするのであれば、それほど汎用性のあるものともいえないし、少なくとも司法試験において中間審査基準で検討すべき内容はたける氏がいうLRA基準と異ならないので別立ての必要もない。

上述のように、経済的自由のうち消極目的規制について中間審査基準によるというのが、一般的な学説の立場である。
では、中間審査基準はLRA基準と異なるからLRAの検討をしないのかというと、判例はそうは考えていないというのは、すでに判例学習でみなさんよくわかっているだろう。
薬局開設距離制限規定違憲判決(最大判昭和50年4月30日民集29巻4号572頁)では、以下のように説示している。

 職業の許可制は、法定の条件をみたし、許可を与えられた者のみにその職業の遂行を許し、それ以外の者に対してはこれを禁止するものであつて、右に述べたように職業の自由に対する公権力による制限の一態様である。このような許可制が設けられる理由は多種多様で、それが憲法上是認されるかどうかも一律の基準をもつて論じがたいことはさきに述べたとおりであるが、一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであつて、許可制の採用自体が是認される場合であつても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。

この点について、石川健治憲法判例百選(第6版)207頁の解説において、以下のように指摘されている。

 本判決は,規制の必要最小限度性を強調するLRA定式に,判例の趣旨を絞り込んだ。合憲性を正当化できるのは,許可制によらなければ立法目的を「十分に達成することができない」場合だけである。

このように、学説が中間審査基準によるべきという経済的自由のうち消極目的規制について、判例はLRAの検討を要するとしているのである。
もちろん、二重の基準論から、経済的自由規制と精神的自由規制には、前者は合憲性、後者は違憲性の推定がなされるという点で区別されると位置付ければ、中間審査基準においても、自由権の性質によってその審査密度は異なるという理解も可能である(この場合においても、「合憲性判断基準」と「(違憲)審査基準」は区別される点に注意)。
しかし、それは審査基準の考え方としては一般的な理解ではない。
それは、尾形健教授がこのように説明しているところからもわかる(法学セミナー684号33頁)

 具体的事案の処理に妥当する基準については,次のものが通説的体系化といえよう。(ア)(事前抑制[検閲]や過度広汎規制ゆえの)文面上無効の判断,(イ)(ⅰ)表現内容規制には厳格な審査基準(「明白かつ現在の危険」や「定義づけ衡量」),(ⅱ)表現の時・所・方法の規制(内容中立規制)には内容規制にほぼ準ずる基準(LRAの基準),(ウ)経済的自由規制については,合憲性推定の原則と結びついた合理性の基準を基礎に,(a)消極目的規制には「厳格な合理性」基準,(b)積極目的規制には「明白性の原則」,(エ)社会権プライバシー権・自己決定権や「法の下の平等」も,その性質・内容に応じて以上に準ずる基準。
 これらについては,(イ)(ⅱ)内容中立的規制と(ウ)(a)経済的自由の消極目的規制とは,合憲性推定原則を除き同レベルの基準が想定されており,実際には3種の基準(厳格審査基準と「厳格な合理性基準」,そして「合理性基準」)の適用が想定されている,と指摘される。

これは、別に尾形先生の独自の見解というわけではなく、芦部先生、高橋先生、市川先生といった違憲審査のプロフェッショナルによるご指摘であって、要するに、通説は、審査基準の程度としては、内容中立的規制と経済的自由の消極目的規制とは、同じとみているわけである。
したがって、答案政策上においても、両者において検討すべき目的・手段の中身は変らないと考えていい(むしろそう考えないといけない)。以下で述べるように、目的も手段も、立法事実に基づく権利制約に釣り合う利益の有無、目的達成のための手段としての関連性、相当性を常に吟味することを意識することに違いはないということである。

というわけで、試験対策的には、LRA基準を別個独立の基準として考える必要がないことが明らかになった。検討しようとしていることは実質的には同じかもしれないけれども、思考経済的に3つの基準さえ、とりあえず押さえれば試験対策としては足りるのであり、これは「実際には3種の基準(厳格審査基準と「厳格な合理性基準」,そして「合理性基準」)の適用が想定されている」という一般的理解からも明らかである。
概念の捉え方の問題といえばそうだが、少なくとも、LRA基準だからといって、目的審査を軽んじることだけはあってはならない。

問題は、3つの基準における目的・手段の審査密度である。大枠として3つに分ける審査基準論は、憲法問題について裁判官の自由な裁量的判断に任せないための枠組であるとしばしば指摘されるところで、それゆえに、この3つの目的・手段の判断枠組みをしっかり押さえた上で、当てはめしなければならない。

補足
たける氏が、本記事を読んでくださったようで、Twitterでは、以下のように述べられている。

LRAの基準とLRAの準則は別物なのですが

このように考えれば、確かに、通説の分類を維持しつつ、中間審査基準においてLRAの検討をすることを否定しないでもよい(ただし、上述の高橋・立憲主義日本国憲法131頁における「LRA基準」とは内容が異なる点に注意)。
もっとも、ここでは「基準」の考え方について論じているのであって、別概念である「準則」を持ち出したからといって、3つの基準にするわけではないのであろうから、ここで指摘している問題に対する答えにはなっていない。「LRAの準則は審査基準ではない」というのであれば、別に「LRAの基準」というものを立てる実益がなければならないが、基準と合憲性の推定とは異なるのであるから、結局、基準は3つで足りるということになるだろう。

いずれにしても、目的審査を軽んじるわけではない点では異ならないだろう。
ちなみに、たける氏は、「件のブログは、LRAの基準を中間審査に位置付けているようですが」と指摘されるが、3つの基準で足りるという趣旨はそうではない。上述のとおり、学説においても、LRAの審査は中間審査基準だけでなく、厳格審査基準でもなされうるものとされているわけであるから、独立したLRA基準というものを掲げることは混乱を招くだけだろうという趣旨である。これを、LRAの準則として位置付けるのであれば、それでいい。要は、概念の整理において、「LRA」という言葉を正確に位置付けることができればいいので、混乱を避けたいという趣旨で、こうもダラダラと学説や判例を引用した次第である。
ただ、このような混乱はひとえに学者の責任じゃないかと、思う今日この頃である。

それと、たける氏の現在の見解は、ここで引用したブログの見解とは異なるとのこと。なので、たける氏の見解を知りたい方は、受験新報2014年10月号の連載などを見ましょう。

2 審査基準の設定について
ここでは、渋谷秀樹教授と高橋和之教授の見解によるのが、試験対策的には有益と考える。

ポイントは、侵害された権利・利益の重要性をよく検証すること。
注意点は、対抗利益(政府利益)の重要性なんかをここで考慮してはいけないということ。

審査基準の設定は、高橋教授の見解が単純・明快で、かつ、説得的で、おすすめ。
高橋和之違憲審査方法に関する学説・判例の動向』曹時61巻12号9頁で、以下のように指摘している。

 審査基準の振り分けは,人権制限が人権価値に与える衝撃の大きさを基礎になされている

そして、その判断基準は、蟻川教授が指摘するところでもあるけれども、多くの受験生が採用するやり方でよい。
蟻川恒正「2015年司法試験公法系第1問」法教418号101頁の言葉を借りれば、次のとおりである。

 多くの受験生が(私が見るところ殆ど習慣的に)採用している「判断枠組み」の決定方法は,概ね⑴制約されている憲法上の権利の重要性の有無,および,⑵当該規制の制約態様が厳しいものであるか否か,のふたつの観点により,「厳格審査」・「厳格な合理性の基準」・「(単なる)合理性の基準」のいずれかを振り分けて「判断枠組み」とするという方法であるように見受けられる。その遣り方をいささか戯画的に組み合わせパズルのように適用するならば,次の如くとなろう。A制約されている権利が重要で制約態様が厳しい場合→「厳格審査」,B制約されている権利が重要だが制約態様が緩やかな場合→「厳格な合理性の基準」,C制約されている権利は重要でないが制約態様が厳しい場合→「厳格な合理性の基準」,D制約されている権利は重要でなく制約態様も緩やかな場合→「(単なる)合理性の基準」。

要するに、①権利の重要性と②規制態様の程度で判断するということである。
まとめると、以下のようになる。
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○=重要・厳しい ×=重要でない・厳しくない

それでは、何が重要な権利か?
ここで、二重の基準の登場である。
高橋和之「審査基準論の理論的基礎」ジュリ1363号69頁では、以下のような指摘がされている。秀逸なので、ここはバッチリ押さえておきたい。

 二重の基準論においては,民主的政治過程を構成する権利である選挙権や表現の自由などの規制は,民主的政治過程の健全な機能を保護するに適した地位にある裁判所が厳格な審査を行うべき問題であるのに対し,経済的自由などの規制は,民主的政治過程が正常に機能していれば,その過程が生み出す帰結を尊重すべきであり,裁判所は緩やかな審査をすれば十分であると説明されるが,そこでは規制される人権が憲法構造の中で占める地位と性格に応じて審査基準の厳格度が振り分けられているのである。そのほかにも,審査基準を割り振る様々な理論が提唱されているが,すべて基本的には人権の側が起点となっている。憲法の目的が人権保障にあることからすれば,人権規制の合憲性を判断する基準が,規制により人権がどのようなインパクトを受けるかに着目して決定されるということは,当然のことであろう。規制により得られる国家利益の側を起点に,たとえば国家利益が重大であればあるほど,基準は緩やかでよいというような基準論が形成されるとすれば,それこそ立憲主義の意義を見誤ったものと言うべきなのである。

審査基準の振り分けの視点を鋭く指摘しており、強いメッセージ性を感じるところである。この振り分けの出発点を間違えて、あれこれ書いても説得力を欠くおそれがあるので要注意だろう。

学説において、厳格審査基準によるべきとされるのは、二重の基準論を前提としつつ、精神的自由の中でも中核的な権利である、政治的表現の自由や表現内容規制、精神的自由権に関する差別的取扱いなんかが、厳格審査基準によるべきと言われる。
また、個人の尊厳という観点から、プライバシー固有情報をコントロールする権利、生命の処分などに関する自己決定権に対する規制なども厳格審査基準によるべきとされる(渋谷秀樹=赤坂正浩『憲法2 統治』173頁〔渋谷秀樹〕(有斐閣,第5版,2013年)の表参照)。

中間審査基準は、表現内容中立規制、性表現規制、名誉・プライバシーを侵害する表現の自由規制、プライバシー外延情報をコントロールする権利、消極目的の経済的自由規制などである。

合理性の基準は、積極目的の経済的自由規制や差別的取扱いである。

もちろん、これらは一般的な分類である。規制態様の強弱によって基準設定は変りうると解されているので、絶対ではない点は注意。司法試験では、この点について具体的に論じることが求められるというのは、ヒアリング・採点実感にもすでに書かれているところである。

例えば、2009年(平成21年)度のヒアリングでは、「受験者が書きたがる二重の基準とか優越的自由とか自己統治とかいうことを定型的に書いただけで結論を述べる答案は,『不良』な答案である。」と指摘されているところで、設問の事例に着目すべきということはよく指摘されるところである。

規制態様については、「制限が人権の核心・内容に向けられているのか,それとも行使態様に向けられているのか」といった視点から検討することになる(前掲高橋・曹時61巻12号9頁)。
具体的には、

  1. 強制力を伴うか
  2. 直接規制か間接・付随規制か
  3. 事前規制か事後規制か

といった事情を検討するといい。

で、次が本題。

3 目的・手段審査の3つの審査密度
(1) 目的審査
ここでのポイントは、目的として保護しようとしている利益(政府利益・対抗利益)が、制約される権利・利益に見合うかという点を意識すること。ここでは、立法側の理屈が筋の通ったものなのかが検証される。したがって、逆に基準設定でした侵害権利の重要性の検証をこの場面でするわけではないという点に注意。

では、具体的に、3つの審査基準で、どのように審査するのか。考慮すべき事項を考える。
この点については、前掲渋谷秀樹=赤坂正浩『憲法2 統治』169頁の大枠で押さえれば足りる。
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まず、第1に目的について見ていく。
「立法目的の審査では,制限される人権の『重要度』に釣り合うだけの制限の『必要度』が確証されねばならない」。これは、審査基準論が、「得られる利益と失われる利益の衡量を方向づける基準を設定し,その基準をパスすれば,得られる利益の方が大きいとみなそう」という利益衡量の手段であることによる(前掲高橋・曹時61巻12号7頁)。
したがって、「失われる利益が『重大』であればあるほど,まず目的審査において,それに対抗する利益(得られる利益)が失われる利益に見合うだけの重大さをもつのかが審査され」ることになる(前掲高橋・ジュリ1363号69頁)。これが、求められる内容が審査基準によって異なる理由である。重要な人権を制約しても許されるのは、それによって得られる利益がその重要な人権制約に釣り合うほどのものだからだ、ということを、ここでは検討しなければならない。

ここで気になったのが、たける氏は目的審査においては、次のような定式を使っている点である。

 目的審査では,ⅰ保護法益の重要性(量×質)とⅱ害悪発生の確率の掛け算により審査をすることになります。

しかし、宍戸常寿『憲法解釈論の応用と展開』でも指摘されているように、目的審査における政府が守ろうとする利益(政府利益・対抗利益)は、「量」の問題ではなく、「質」の問題であるという点である。
例えば、2010(平成22)年度の憲法の問題を考えてみるとわかる。ここでは、選挙権の行使態様について制約されている。選挙権という権利が、民主政の根幹をなす重要な権利とすると、この重要な権利を制約することで得られる利益が十分に釣り合う性質のものでなければ目的として設定しえない。
例えば、ここで貧困層が増えることによる市のイメージダウンを回避するという利益(市のイメージアップの利益)を目的と設定した場合、そんな目的のために重要な選挙権を事実上にしろ制約することは認められない、と感覚的に感じるのではないだろうか?そして、その感覚は正しいといえる。
これに対して、選挙の公正を確保するということを目的とした場合はどうか?選挙権の行使を十全のものとするための目的でもあり、これは憲法の基本権保障の趣旨にむしろ資するといえる。
しかも、在外国民選挙権事件判決(最大判平成17年9月14日民集59巻7号2087頁)では、単に抽象的・観念的な「選挙の公正の確保」という目的ではなく、選挙権の行使の制約が許されうるのは、「選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合」としている。この点において、少なくとも、審査密度は合理性の基準のような抽象的・観念的な審査ではないことが明らかである。政府利益という視点から捉え直せば、「選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難である」ことを回避するという利益、裏返せば選挙の公正を現実的に維持するという利益といえる。この利益は、単に量を問題としているわけではない。制約される在外邦人の数を問題としているわけではない。
選挙権という重要な権利である。判決でも、「国民の国政への参加の機会を保障する基本的権利として,議会制民主主義の根幹を成すもの」としており、その重要性を基礎付けている。だからこそ、選挙権の行使が許される場合を、限定的に捉えているといえる。
もちろん、判例は審査基準論を採用しているわけではないが、このような権利・利益の質に着目するという点は、変らない。
たける氏の考えでは、多数の利益のためであれば、その利益の質が重要なものでない場合でも、場合によっては重要な権利を制約する根拠となるが、それは人権保障という根幹の考えとは相容れないのではなかろうか。
仮に量を問題とするのであれば、害悪の量ではなかろうか。場合によっては、害悪の量によっては、それを回避するための政府利益は、質的に重要度を増すことがありえるように思われる。
まぁ、こんな抽象論を言っていてもいまいち空中戦の域を出ない。
個人的には、佐藤幸司教授や宍戸教授らが指摘するように、目的における政府利益については、「量」ではなく「質」の問題と捉えるべきように思う。

 

それから、当然のことであるが、いずれの審査基準についても、立法目的が「憲法の基本権保障の趣旨に反しない」ことが前提となる(大石眞『憲法講義 1』250頁(有斐閣,第3版,2014年))。例えば、国民のストレス発散を目的とした、特定の人種や障害を有する者に対しては不合理な差別することを許すといった立法は、およそ許される余地はない。
もちろん、立法府がこのような憲法違反の目的を設定することは、およそ考えられない事態ではある。しかし、表面上の目的と実際の目的が異なるということはあり得る。その検証が、後述のいわゆる立法事実論である。

次に、各審査基準ごとの審査密度について見ていく。

厳格審査基準では、目的が「真にやむをえない利益」のためであることということで、これが最も厳しい目的ということになる。
立法目的が真にやむをえない利益のためということがいえなければ、その時点で試合終了=違憲である。
重要な権利制約を前提とする厳格審査基準においては、その制約によって得られる利益が、失われる重要な利益と釣り合う大きさのものでなければならない。その意味で、「真にやむをえない利益」とは、中間審査基準における重要な利益だけにとどまらないというニュアンスは伝わってくる。
しかし、具体的にどのような利益が真にやむをえない利益なのかは、これ自体からは判然としない。
判例では、

  1. 「公正な裁判の実現」(最判昭和56年4月14日刑集23巻11号1490頁)
  2. 「空港の設置、管理等の安全」(最大判平成4年7月1日民集46巻5号437頁)
  3. 「逃亡及び罪証隠滅の防止」と「監獄内の規律及び秩序の維持」(最大判昭和58年6月22日民集37巻5号763頁)

などを、真にやむをえない利益とみていると解されている(前掲渋谷秀樹=赤坂正浩169頁)。

合理性の基準では、立法目的が正当かどうか問題となる。この基準は、合憲性が推定される場合に採用される。その結果、厳格審査基準や中間審査基準とは異なり、「議会が制定した法律に規定されていれば『正当』であり,それが観念的にでも想定できる目的であれば『合理的基礎』があることになる。そこでは,立法事実に支えられることは要求されない」(青柳解説・百選(5版)65頁)。
つまり、合理性の基準では、合憲性の推定によって、立法事実を踏まえて検討することなく、一般的・抽象的に判断して、それが「憲法が禁止するものでない」限り、正当といえることになる(前掲高橋・曹時61巻12号15頁)。
ということで、合理性の基準において、目的審査で違憲となることは、事実上まずないだろうということが予測できる。とはいえ、一応、答案においては、この点を踏まえて、サラッと「立法目的が憲法の基本権保障の趣旨に反しない」ということを確認しなければならない。

他方、中間審査基準では、立法事実を踏まえた目的審査となるので、お題目として掲げた立法目的が、憲法の基本権保障の趣旨に反しないもので、かつ、重要な利益のためであるとしても、それを基礎付ける諸々の社会的事実がなければ目的審査をパスしない。
以上の点で、中間審査基準における目的審査と合理性の基準における目的審査には、大きな違いがある。

(2) 手段審査
手段審査では、上記の表の通り、①目的との関連性と、②手段の相当性の2つの視点を持って検討することを要する。
ア ①目的との関連性
まず、①の目的との関連性について見る。
厳格審査基準では、手段が目的達成に必要不可欠であることが要求される。これは、現実的に見て、当該手段以外に目的達成できない唯一の手段であるということを意味する。もちろん、抽象的・観念的に手段は想定できても、目的を達成するのに現実的なものでなければならないので、これによって必要不可欠性は否定されない。
しかし、1つでも他に十分に目的達成できる手段があれば、必要不可欠性の要件を欠くことになる。
後述のとおり、この判断は、立法事実に基づいてなされることになる。したがって、抽象的・観念的に当該手段の必要不可欠性が判断されるわけではない。
この点は、よくよく注意すべき点である。問題文において、この点に関する記載があるにもかかわらず、立法事実を無視して、抽象的・観念的に一般論を展開しても、手段の必要不可欠性について論証したことにはならないということになる。
手段審査は点数を稼ぐべき部分なので、要注意である。

中間審査基準では、「立法目的と手段との間に単なる合理的関連性にとどまらない事実上の実質的な関連性」が必要とされる(前掲高橋他・憲法Ⅱ309頁)。つまり、目的達成に必要な手段であることが、立法事実に照らして認められることを意味する。厳格審査基準と同様に、抽象的・観念的な判断ではない点に注意。

合理性の基準では、上述のとおり、立法事実を踏まえないで、抽象的・観念的にみて目的と手段に合理的関連性が認められれば関連性基準をパスする。裁判所の立場からいえば、目的と手段の関連性について立法事実に支えられていることを自らの判断で確認する必要はないということである(前掲高橋・曹時61巻12号8頁)。
つまり、机上で当該手段が目的達成に役立つ関係にあると考えられればOKということになる。他の審査基準と異なり、立法事実と離れて、法文上において目的と手段の関係が認められれば足りるから、それだけ審査をパスしやすいということを意味する。

イ ②手段の相当性
次に、②の手段の相当性について見る。
厳格審査基準では、目的達成に必要最小限度の手段であることが要求される。言い換えると、「目的と過不足なくぴったりと適合した手段」であることが要求されるということを意味する(前掲高橋・曹時61巻12号15頁)。他により制限的でない有効な手段があれば、必要最小限の手段とはいえない。この意味で、LRA基準は厳格審査基準でも使うことができるのは冒頭で述べたとおりである。
ちなみに、LRA基準には、厳格度の高いLRA の原則というものがあって、厳格基準審査では、ただ他により制限的でない有効な手段がないだけではなく、「最も制眼的でない他の選びうる手段」がないかどうかを検証しなければならない(新正幸『憲法訴訟論』535頁(信山社,第2版,2010年))。この意味でも、LRA基準というものが相対的な概念として捉えれば足りるといえる。

冒頭で指摘したように、「中間審査基準は,目的審査においては,……手段審査では目的と手段との『実質的関連性』を要求し,具体的には『人権を制約することがより少ない他の方法』(Less Restrictive Alternatives,日本ではLRA基準と呼んでいる)がないことを要求することが多い。」とされており、ここでは、実質的関連性の内容に、単に手段と目的達成に事実上役立つということ以上に、より制限的ではない代替手段がない関係にあることも含まれている。
そのため、一般的には、中間審査基準(厳格な合理性の基準)とは、「目的が重要で、手段が目的と実質的関連性を有すること」という基準が設定される。これは、誤りではないし、答案では時間との関係からこれでよい。
ただし、司法試験的には、緻密に分析して、当てはめをするという観点から、関連性判断と相当性判断とは一応区別しておくべきだろう。その上で、答案にどう表現するかを考えればよい。これも試験対策的な考慮であり、このような分析自体は、上記の表のとおり、誤りではない。とすれば、ざっくりした当てはめにならないためにも、関連性と相当性は一応区別しておくべきである。
そうすると、答案構成的には、見出しを付けて工夫するなどすればいいんじゃないかと思う。例えば、

1 目的
2 手段
(1) 関連性
(2) 相当性

こんな感じ。別に見出しを付ける必要はないので、ナンバリングだけで、各々異なる問題を論じていることをアピールしたらいいんじゃないかと具申いたします。
これも、結局問題との兼ね合いではある。立法事実との関係で、相当性が欠けるような事実しかないのであれば、事実上の関連性は認められると軽く触れたうえで、相当性を問題に厚く論じればいい。要するに、事実をうまく使おうってことである。
これは、もちろん他の審査基準においてもいえることである。ただ、私見を論じるところでは、中間審査基準によることが上記の表からみても多いと思われるので、この視点だけは気に留めておいていいだろう。

合理性の基準についても、これと同じことがいえる。合理性の基準における手段は著しく不合理でないことが要求される。もっとも、合理性の基準では、関連性の問題では目的と手段との合理的の有無が問題となるところ、相当性の問題において手段が著しく不合理である場合には、手段の相当性を欠くと同時に、そもそも目的達成の手段としての合理的関連性も認められないともいえる*2。その意味で、関連性と相当性は密接に関連しており、手段審査は目的と手段の合理的関連性の判断に集約することができる。ただ、思考経済的には両者を一応区別して、事実に着目するということが司法試験対策的には有用だろう。いずれにしても、立法事実を踏まえない、抽象的・観念的な判断であることに変りはない。
ちなみに、前掲高橋・『立憲主義日本国憲法』131頁以下では、次のように指摘している。

 合理性基準は,目的が正当(legitimate)であること,つまり,憲法により禁止されてはいないこと,手段が目的と「合理的関連性」を有すること,つまり,一般人が合理的な手段と判断するものであることを求めるものである。議員は一般人の代表であるから,議会が合理的と判断したものは原則的には合理的と認められるべきだとされ,ゆえに,不合理が明白である場合以外は違憲とされることはないことになる。このため日本では「明白性の基準(あるいは原則)」とも呼ばれている。

4 立法事実論
立法事実とは、法律の基礎にあってその合理性を支える社会的・経済的・文化的な一般的事実をいう。
したがって、政府の法案の理由とした立法事実や国会の認定した立法事実のみが立法事実となるわけではない。また、社会的事実は時の経過によって変化しうるので、立法当時の立法事実が現在でも妥当するとは限らないのである。これは、当事者によって主張立証される当該紛争の解決に必要とされる司法事実とは異なる。

上述のとおり、立法府違憲な目的を(少なくとも表面上において)設定することは現実的に想定できない。
国家権力による人権侵害は、しばしば美名の下でなされるものである。
その美名が事実に基づくものかどうかを検証することで、ありもしないでっち上げの立法目的かどうかを見抜くことができる*3
立法事実の検証というのは、そういった機能を持つものであり、まさに立法の支柱そのものといえる。支柱が崩れれば当該法が有していた正当性も崩れ去るのである。

近時の最高裁違憲判決では、この立法事実の認定・評価が、憲法判断に直結している側面もあり、ホットな話題でもある。
試験対策的には、立法事実をどう目的審査や手段審査においてうまく使うかが点数に結びつくかどうかの大きな分かれ目と小生は考えております。

というわけで、立法事実というのがいかに重要かがイメージできたところで、審査基準論との関係を見てみよう。

具体例として薬事法違憲判決がある。
これは、国会の認定した立法事実は、薬局開設の自由→偏在乱設→過当競争→経営不安定→設備の欠陥・医薬品供給の適正阻害という不良医薬品販売に至るという因果関係の存在である。これを根拠に、薬局開設の適正配置規制という立法をしたわけである。
本件で問題となった適正配置規制は薬局業界を代表する議員を中心に議員立法として成立したもので、実は、大手スーパの進出に音を上げた既存薬局の保護を目的としたものであった。
ところが、最高裁では、立法目的を「適正配置規制は、主として国民の生命及び健康に対する危険の防止という消極的、警察的目的のための規制措置」と認定して、「競争の激化経営の不安定法規違反という因果関係に立つ不良医薬品の供給の危険」は、「単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは認めがたい」として、手段審査の結果、違憲判決を下した。
本判決は、既存薬局の保護という「本音」を消極的、警察的目的のための規制措置という「建前」によって正当化しようと目論んだ議員立法の嘘を、立法事実の精査により暴いたのである。そして、立法手段(適正配置規制)を支える社会的事実を欠くとして、違憲判決をしたというものである。

このような立法事実の意義・機能は、次のようにまとめることができる(高橋他・憲法Ⅰ303頁)。

 立法者が立法をするにあたっては、それを必要とさせる社会的・経済的等の事実が当然認識されているはずであるが、立法者による立法事実の認識に誤りはないか、立法事実は裁判の時点でも存在しているか等の審査が必要とされるのである。そして法令の違憲審査は、通常は、立法者が設定した立法目的と、その立法目的を達成するために選択した手段の両面にわたって行われるが、検証された立法事実に照らしてそれら立法目的と手段選択は正当かつ相当といえるかどうかの判定がなされることによって、裁判官の臆断によらない、科学的な根拠に立った憲法判断が可能になり、判決に説得力がもたらされることになる。

したがって、「問題となっている法令は、立法目的およびそれを達成するための手段として、合理性をもつかどうかは、当該法令の文言や建前だけでなく、当時の立法資料をはじめ、その後の社会状況の推移・変動を裏付ける社会的・経済的な諸資料に基づき、できるだけ客観的になされなくてはならない。」(前掲新憲法訴訟論594頁)

立法事実は、①目的面と②手段面のいずれも問題となる。これは、①立法目的および②手段選択が、立法事実に照らして、正当かつ相当といえるかという問題である。

①目的との関係では、立法目的を支える社会的事実があるかの問題である。具体的には、立法の必要性を基礎付ける社会的事実や、立法によって得られる利益・失われる利益を基礎付ける社会的事実が何かを検証することになる。

②手段との関係では、当該手段によって目的を達成・促進することを基礎付ける社会的事実があるかの問題である。
選択された手段が目的との関係で、実は必要とされる社会的事実が存在しなかったとすれば、そもそも手段と目的の事実上の実質的関連性を欠くことになる(例:薬事法違憲判決)。
また、その手段によって制約される権利の衝撃度も、立法事実に照らして判断することが必要である。この検証が、必要最小限な手段といえるか、より制限的でない有効な手段があるかといった判断の材料となるからである。

5 さいごに
気がついたら、くっそ長い文章を書き連ねていた。
基本的に、冒頭のたける氏と別に考慮すべき点は異ならないのかなと思われるのだけれど、ダラダラ書いた分、全然まとまっていない。ご容赦をッ!

さいごに、簡単にまとめる。

まず、権利制約を検討。
事案発生。ということで、これが権利制約に当たるか検討。ここは、三段階審査論*4と同じ発想でよい(その理由については、高橋 和之「違憲判断の基準~その変遷と現状~」参照)。まず、問題とされるべき対象によって権利が制約されているといえるかという、権利性について(保護範囲の問題)。
次に、当該権利を制約したといえるかの問題(制限の有無)。
ここでは、原則として、権利の重要性なんか厚く書かなくてよい。権利の重要性は基準設定で論じるべき。
以上が、権利制約の問題。
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次に、基準設定。上記の表のとおり、①権利の重要性と②規制態様から判断。ここは、事案に則して、具体的に論じていこう。
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最後に、目的・手段審査。これも、上記の表を参考に、立法事実に照らして、合憲性の評価根拠事実と評価障害事実を各々の立場から書きまくろう。

まとめはこんな感じ。

 

じゃあの

*1:もちろん、思考整理の問題と捉えている私見において、たける氏の整理を否定するという趣旨ではない。いずれも誤りとは思われない限り、司法試験的に使いやすい方を使えば良いと考えている。ちなみに、合憲性・違憲性推定を前提に、LRA基準を表現内容中立規制、中間審査基準を経済的自由のうちの消極目的規制に分類するという点で区別の意義を見出そうとする偉い先生もいるが、現在は合憲性・違憲性推定の問題と、審査基準の問題とを区別する見解も有力である。とはいえ、そうだとすれば、当てはめて論じるべき内容に差がない以上、司法試験対策的には、LRA基準と中間審査基準を区別する実益は皆無だろう。むしろ、LRA基準では常に目的の重要性または正当性のいずれかで判断するという理解では弊害すらある。後述のとおり、厳格審査基準における手段審査でLRA基準を使うこともあるという高橋説を前提にすれば、目的はやむにやまれぬ利益のためというケースも出てくる。したがって、通説的な審査基準論者である高橋説に乗っかるのであれば、「基準」という枠で考える限りわざわざLRA基準を別立てにする必要はない。他方、たける氏のように初めから目的を重要と決め打ちしておけば、高橋説とは異なるが、問題は回避できる(が、3基準で考える限り試験対策においてその実益はない)。

*2:これも「合理性」の内容次第である。「合理性」という意味を、手段が目的に役立つという意味に限定すれば、たとえ手段が罰則等による過剰なもので著しく不相当なものであることが明白だったとしても、ここでは合理的関連性自体は肯定できる。この場合、手段の相当性を欠くと論じることによって、違憲を導くことになる。論じ方の問題ではあるが、関連性と相当性という視点自体は事案分析において有用であることに変りはない。

*3:近時のトレンドは、人権保護を謳いつつ人権侵害をするというパターン。その見極めは困難をきわめるが、民主政治は選挙で決まるので、国民の代表を選ぶ国民の目が節穴のままでは、危うい状況を脱することは難しい。蛇足でした。

*4:ちなみに、ここでいう「三段階審査論」とは、ドイツの憲法裁判で実践されている違憲審査手法(①保護範囲、②②制限、③正当化の三段階による審査)を指しているが、論者によって呼ばれ方が区々である。「三段階理論」という人や、アメリカ型の審査基準論を前提に「三段階審査」を言う人もいる。 高橋教授によれば、ドイツでは保護範囲の問題とその制約の問題を分けるが、アメリカ型ではそれを一緒くたにしてやるに過ぎないので、この点ではやってる内容自体は異ならないという。ただ、ドイツでは結局比例原則の当てはめが勝負になるが、目的・手段の審査において明確な判断基準がない点でこれまで批判に晒されてきた「裸の利主衡量論」と同じだと批判される。この批判が当たっているかどうかは、学者の議論であるが、少なくとも概念自体に定説がなく最近議論されてきたものなので、論者によって幅が見られるため、このような曖昧不明確な判断枠組みを司法試験という実務家登用試験で使うのは避けたほうがよい、というのが個人的見解である。もちろん、三段階審査論の考え方自体は参考になるので、参考にすること自体に異論を唱えるものではない。