にーやんのブログ

三振したにーやんが再ローを経て司法試験に合格した弁護士の物語である

違憲判断間近の再婚禁止期間規定。夫婦別姓選択制という選択の自由。の巻

ちょっと時間が取れたので、そこまで言って委員会をみてた。

 

12月16日に最高裁で、再婚禁止期間の民法の規定の違憲性と、夫婦別姓でないことの違憲性について判断がされる。

にーやん的予想

再婚禁止期間の規定は100%違憲
まったく合理性のない規定だから。
これは間違いないと思う。
ただ、一抹の不安を覚えるのは、「合理的期間論をもって合憲だけど立法改正しろ!」、みたいな中途半端なことをするかもしれないという点。
嫡出子に関する初期の判例のような愚を繰り返すべきではない。ここは積極的になっていい。

夫婦別姓については、最高裁的には合憲にするんだろうなと予想される。
しかし、にーやん的には反対。
慶應の竹田先生は、変えてはいけない文化というが、これは間違え。
個人的には、あまり好きじゃないけれど、この点については、辛坊治郎氏がまったく正しいことを指摘しており、これと全く同意見だ。
好きじゃない人が俺の意見をほぼ体現してくれていて、びっくりしたけれど。

まず、文化や伝統は守るべきものがあって、時には不合理なものもある。そこは認めるけれど、問題は次の点にある。
すなわち、その不合理を法制度をもって強制すべきものか?
にーやんは結婚したら、にーやんの性で統一される。これは、にーやんの価値観。そして、この価値観は伝統的な日本の価値観にも一致するし、文化や伝統にも合致するものだろう。
しかし、個人的にそのことを他人に強制する権利はないと思う。
ライフスタイルって最も重要な価値観であって、それは憲法を学んだ人なら誰もが知っている憲法13条において宣言されているところだ。
個人が自己の幸福を追求することを阻むようなことは、原則としてあってはならない。基本的に、それによって被る害がないのであれば、その個人の意思を尊重する。そんな世の中ことが1番良いし、実は日本という国はそういう点に寛容な国だったはずだ。だから、そもそも伝統的には、法制度をもって性を統一していたわけではなく、昔はそれが当たり前だったというだけの話。

けれど、このグローバル社会で、色んな日本人がいる。それは良いことだと思うし、できる限り尊重されていい。
その価値観こそが日本という寛容でおおらかな国において、とても素敵な部分だと思う。
竹田先生は、木を見て森を見ず。個人的には、そう思います。
もちろん、こんな個人的見解に反論することは容易だろうけれど、反論のための議論ではなく、本当に重視すべき日本の価値観というものを改めて考えてもいいんじゃないのかと愚考する次第です。
歴史的に日本は神道の国だと言われるけれど、それでも宗教に関して世界的に見て寛容なほうだったと思う。歴史や世界の比較に過ぎないけれども。
八百万神を肯定する国だからこそ、そういった寛容さがあったんじゃないか?そして、それはとても素敵な価値観じゃないか?
個人的にはそう思うのです。

以前、出生前診断の是非について話をしたことがあった。これも同じロジック。
個人的には出生前診断に反対。だけれど、出生前診断をしたいという人にするなと強制するのは間違いだと思う。それは、もっと簡単な理由。無責任だから。
出生前診断をして、子供に障害がある可能性が分った場合、それを前提に産むか産まないか。その決定権者は誰なんでしょうか?
当然、子の親であるべきでしょう。決して、社会という抽象的団体ではない。
にもかかわらず、法をもって出生前診断を禁止するとなれば、法的にその決定権者の選択の自由を奪うことになる。
その結果、望まれない子が産まれて、その子を育てることを強制することになるわけだけれど、このときに最も可哀想なのは望まれないで産まれた子だ。
人間は神ではない。神と人間は違うのだ。
この世に望まれない子なんていない、とかいう偽善者がいれば、是非そんな子を責任をもって育ててあげて下さい。そんな責任をもって出生前診断に反対するなら立派なものです。とても。

しかし、出生前診断に反対する人にそんな責任をもって主張する人は何割いるんでしょうね?
あなたの主張を認めてあげる代わりに、障害者を産んで、子を捨てた親がいたら代わりに責任をもって育てる覚悟があるんでしょうか?
もちろん、子を捨てた親が悪いに決まってる。
でも、そんな状況を法制度をもって強制してしまうことが原因ではないか?
誰もが幸せな家庭を築きたいはずで、そのためにはやっぱり出生前診断という選択肢は手段のひとつとして認めてもいいんじゃないでしょうか?
別に、それは選択肢のひとつに過ぎないのであって、出生前診断という制度に反対の人は個人的に反対の意思を貫けばいいじゃないんですか?それを他人に強制することは正しいのですか?それを強いることに責任はないのですか?

そう思うようになった。
だから、選択肢は多いほうがいいし、その選択肢を選ぶ権利を認めるような社会。それが日本という国じゃないのか?

話を戻すと、夫婦別姓も同じことがいえる。
現代の価値観でも、夫婦別姓をあえて選択する人は極々少数のように思う。もちろん、自分もそんな選択肢をすることはないと思う。
けれど、夫婦の在り方に対して、法制度をもって強制するというのは、実は寛容である日本の歴史や文化とは、実は異なるんじゃないだろうか?
むしろ、自然。それが夫婦同姓。日本の文化的価値観はこれだと思うし、そこに反対するわけではない。
ここで言いたいことは、夫婦別姓を選択したいという少数者の幸福追求権の保護。
竹田先生はおっしゃった。変らないのは憲法だと。
その憲法は、最後の最後に、司法機関が人権の塞として、そういった少数者の人権を救済する。そういった価値観も日本に合うものだと思う。
夫婦同姓を強いる法制度は、自己の信じる価値観の押しつけでしかない。
バランスを考えると、夫婦別姓選択制なら誰も傷つくことはない。
その結果、夫婦同姓が崩壊するような社会であれば、それは時代とともに日本の価値観が変ったというだけのことだ。
しかし、そんな事態を恐れるが余り、夫婦同姓を強制するというのは、日本の価値観にはそぐわない。寛容な国なのだから。そして、そんな寛容な価値観こそ日本において守るべきものだと思う。

日本人は道徳心が高いように思う。しかし、その高すぎる道徳心をもって自由な国である日本の価値観を固定化するべきではない。
結論。
日本という国は、個人の幸福を色々選択できる社会であるべきだ。