にーやんのブログ

三振したにーやんが再ローを経て司法試験に合格した弁護士の物語である

安楽死否定による生の強制。の巻


世界に衝撃、米29歳女性の「安楽死」 日本でも議論、「尊厳死」との違いは? : J-CASTニュース

安楽死のニュース。
とうとう亡くなられたとか。

ちなみに、安楽死尊厳死は違う。
法的にも、尊厳死は問題ないというのが通例。

でも、安楽死させる医者は、原則として殺人罪
違法性阻却される要件は、日本においては、極めて厳しい。

そんなことを言いたいわけではなくて。

このニュースで、安楽死について賛成とか反対とかそういう議論がされてる。

個人の信条で、安楽死に反対するのは自由。
表現の自由でもあるし、そう言うのは結構。

だけれど、それを第三者に押しつけるなという怒りをいつも覚える。

これって、生き様の問題なわけで、迷惑を被る身内や利害関係人が文句言うなら、理解できる。

しかし、まったく関係ない赤の他人が、
安楽死なんかするな!」
なんて、どうして言えるのか?

じゃあ、病気で痛みや精神的な苦しみを負う人間は死ぬまで苦しめというのか。
そんなことを言う権利が第三者にあるのか。

そんなはずない。

生き様は自分で決めていい。
少なくとも、日本はそういう自由な社会であって、生きたいと思う人を殺す権利がないように、死にたいと思う人を生きろと強制する権利は、少なくとも赤の他人にはない。
それは自分の信条として、自分が全うすればいい。

病気で辛い思いすらしたこともない人間で、そのつらさを知らない人間ならなおさらだ。
仮にその辛い思いを知っている人なら、生きることのほうが辛いという気持ちもわかるはずだろう。
そのうえで、他人に生を強制するなんて愚行は犯さない。

生きる自由と死ぬ自由は同義ではないかと思う。
もちろん、自ら死ぬということの社会的コストがあることは自明だ。
けれど、少なくとも他人が文句言うようなことではないし、生を強制する権利なんて他人にあるはずがない。
そんな権利があるなら、同時に義務を負えといいたい。

これは、出生前診断話も同じ。
堕胎するかどうかの自由。
年間23万人ほど堕胎によってこどもの生命は失われる。
それは決していいことだとは、思わない。

だからといって、その23万人を救えという権利は他人にはない。その他人が面倒をみるのか?
そういわれたら、面倒をみる義理はないと、きっと言うはずだ。
義務なく他人に強制する権利は、あってはならないし、そんなこと認めるべきではない。

そもそも、生きるうえで、子供を産むかどうかの選択や、死ぬか生きるかの選択を、他人がどんな権利で干渉できるというのか。
それは、ただのエゴの押しつけ。ファシズムと同じだろう。

普通に考えれば、そんな当たり前のことに気付くはずなのに、なんとなく感情から、「安楽死は良くない」とか、「こどもを堕ろすのは良くない」という道徳観があって、それは間違ってないけれど、それを他人に押しつけできるかは別問題ということに気付いてない。

これは、「自由」ということの意味をはき違えた結果なんだろうとも思う。
思想良心の自由がある。
自由に思ったことを発言する、表現の自由もある。
それは憲法上保障されている。
しかし、だから正しいわけではない。個人の自由と、その自由の行使が正しいこととはまったく異なる問題だ。

そんなことを思う。

「じゃあ、お前は安楽死が正しいと言うんだな」とか、「罪のないこどもが殺されることを是認するんだな」とか、そういうアホなことを言う人もいるかもしれないが、もちろんそうじゃないのは上記のとおり。

個人的な信条の主張と、それを他人に押しつけるのは違う。
言いたいのは、ただそれだけ。

例えば、友人はこう言う。
「デブに人権はないで」
こんな風に思うのは勝手(女友だちからは例外なく不評だったが)。
じゃあ、その友人は、権力者になってデブを血祭りにするかというとそうではない。
個人の価値観と、それを強制することの違いは理解しているし、普通そうだろう。

安楽死も同様だ。
安楽死はよくない」
そう思うのは自由だ。
だからといって、安楽死を望む苦しんでいる他人に生を強制する権利は、誰にもない。

安楽死する人を不快に思うなら、それも自由。
しかし、それは、安楽死を否定する権利が、第三者にあるということまで意味しない。
むしろ、第三者にそんな権利を認めること自体、安楽死しようとする者にとっては、多数決によるリンチと同じ。

そういう話。