にーやんのブログ

三振したにーやんが再ローを経て司法試験に合格した弁護士の物語である

アニメPSYCHO-PASSと犯罪係数と生来的犯罪者と佐世保の例の彼女との関係?の巻

今日は司法試験とは関係ない話です。
なのに、むっちゃ長文になってもうた(´・ω・`)

リアルタイムで見てたのだけれど、最近またやっている新編集バージョンのPSYCHO-PASSというアニメをまた見ている。
日本語では、精神病質者というらしい。
精神病質 - Wikipedia

虚淵玄が好きだからというのもあるけれど、むっちゃ(・∀・)オモロー

PSYCHO-PASS サイコパス VOL.1【Blu-ray】

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マイノリティ・リポートという映画があったけれど、それに近い設定。
機械なんかで犯罪者を予測して犯行に及ぶ前に捕まえるという、未来のお話。

実はこの手の話は大昔からある。
これに関連したことを10年以上も前の大学生時代に少し調べたこともあった。

例えば、チェーザレ・ロンブローゾ
チェーザレ・ロンブローゾ - Wikipedia

遡ること19世紀。100年以上も前のお話だけれど、ロンブローゾという学者が生来的犯罪人説を唱えた。
これは簡単に言うと、犯罪者は遺伝的要素の影響を受けているという説で、学説の通りなるべくして犯罪者として生れた者という者が存在することを前提に、例えば頭蓋骨の形なんかに犯罪者としての特徴が表れているとかいった主張をする。
犯罪者というのは、そいった犯罪者特有の特徴が色々あって、遺伝的要素と関連性があるという。だから、そういう特徴を持つ者はPSYCHO-PASSでいう潜在犯ということになる。

もちろん、現在ではこのような学説は否定されている。

PSYCHO-PASSに出てくる「シビュラシステム」というのも結構似てる。これは、人間のあらゆる心理状態や性格傾向は数値データとして計測して、犯罪に関する数値を「犯罪係数」として計測して、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれる。

未来の話ではそういうことが可能になるという前提。

確かに、犯罪係数=異常者として裁かれるというシステムは合理性があるかもしれない。
佐世保の例の事件を見ても、通常とは異なるという意味での「異常」さを持つ人間は存在する。また、そういった異常者を犯罪者予備軍的に見ることは容易かもしれない。
しかし、現時点において予測は難しく、それゆえ罪を行って事後的にそのレッテルを貼るだけ。したがって、事後的判断で異常者だったということでその判断にはまったく意味がない。
仮に「異常」さを理由に、隔離されるとすると大きな人権問題だろう(もちろんそれをすることによって他者加害を防止できれば正当化されうるが)。

そもそも「異常」というものが、通常とは異なるという意味で考えれば、そこでいう「通常」の定義がこれまた問題となる。
そして、誰もが思ったことはあるはず。自分は普通の人と違うところがあると。そういった一面があれば「異常」であるならば全人類当てはまるおそれすらある。そもそも個性なんて発揮したら、その瞬間から「異常」とされかねない危うい世界だ。

そもそも、違うことは悪いことではない。あえて「通常」というのを定義すれば、それは多数派であるということを意味するに過ぎないのではないか?
辞書には、「特別ではなく,一般的であること」なんてことが書かれていたりするが、それによって明らかになるものはない。ここで言う「特別」とは、少数(派)、まさにマイノリティという意味でしかない。

そして、「異常」な人すべてが犯罪者というとそうではないだろう。
三十路になって奨学金を借りてロースクール2回目という自分なんか「異常」に属するだろうが、罪は犯していない。
その程度では「異常」ではないというなら、「異常」とはどのレベルなのか?
まぁ、そんな答えの出ない話なんかを考えると、PSYCHO-PASSも楽しめる。

ここで佐世保の事件がリンクする。
ここで言いたいのは放送を自粛した例の問題ではなく(あれは完全ステマ狙いだと思ってるけど、まぁどうでもいい)、PSYCHO-PASSで社会から駆除すべき害悪の基準を示す「犯罪係数」というものを想定した場合、佐世保の例の少女は裁けるのか?

裁けるのかもしれない。
しかし、現時点での犯罪者を想定すると、あの彼女の動機は明らかに異質だ。
殺人事件なんかでは、その動機が結構重要だったりする。刑事事実認定なんかでは当然だけれど、動機とその犯行につながりが見えるから。
例えば、怨恨からぶち殺したいという気持ちで人を殺す場合、その気持ちを反映した殺し方になったりする。
もちろん、犯行者の性格なんかも反映される結果、ただ殺すだけを目的とするなら惨澹たる結果にはならないかもしれないけれど、逆に残虐性を有する人なんかだと惨澹たる殺害になりうる。

では、佐世保の彼女はどうだったかというと、ただ遺体をバラバラにすることに関心があったというだけで殺したという。

バラバラにしたかった」=金づちとのこぎり準備―高1女子殺害で同級生・長崎県警
時事通信 7月28日(月)14時32分配信

 長崎県佐世保市のマンションで、県立高校1年の松尾愛和さん(15)が同級生の女子生徒(16)に殺害された事件で、女子生徒が殺害の動機について、「遺体をバラバラにしたかった」という趣旨の供述をしていることが28日までに、捜査関係者への取材で分かった。殺害と遺体の一部の切断に、金づちとのこぎりが使われたことも判明した。
 県警捜査1課は、女子生徒が事前に殺害を計画し、工具類を準備していた可能性もあるとみて調べる。一方で、供述内容などから、生徒の精神鑑定も視野に捜査を進める。司法解剖の結果、松尾さんの死因は頸部(けいぶ)圧迫による窒息死と判明。死亡推定時刻は26日午後8~10時とみられる。
 捜査関係者によると、殺害に使われたとみられる金づちは遺体が見つかったベッドの脇に、のこぎりはベッド上に置かれていたという。松尾さんは立った状態で後頭部を金づちで多数回殴られた後、ひもで首を絞められ、頭部と左手首を切断されたとみられる。
 女子生徒はこれまでの調べに、「後頭部を殴り、首を絞めた。全て私がやりました」と殺害を認めている。動機については、「遺体をバラバラにすることに関心があった」という趣旨の供述をしている。中学、高校の同級生だった松尾さんとのトラブルや、恨みなどについての供述はしていない。取り調べには淡々と応じ、事件への反省の言葉などはないという。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140728-00000052-jij-soci

これって、虫を興味本位で殺すこどもと似たような感覚なんかなと思った。
それが虫なのか人なのかという違いがあるだけ。
その違いが大きいから、一般人は決してその大きな違いからこそ刑法が禁止する人殺しはしない。
刑罰によって法が禁止していても、例えば倫理的にその規範について認識が薄ければやりかねない。立ちションとか。
でも、普通は人を殺さない。倫理的にもしてはならない規範が備わっているからかなと思う。
まぁ、殺したら刑務所行きという罰が重いからしないというのも大きいだろうけれど。
いずれにしても、そういうことは「ヤバい」という感覚を一般人なら共有しているんじゃないかなと思う。そういった感覚があるからこそ、結構話題になるのだろうと推測できる。ただの人殺しではない。異常者による犯行。そういった好奇の目で注目を得ている点は、昔あった酒鬼薔薇事件に似ている。

話を戻すと、仮にPSYCHO-PASSに出てくるシビュラシステムであっても虫を殺すこと自体を是とする場合、「人=虫」という感覚で人殺しをする人間を他の犯罪者同様に認識して裁くことができるんだろうか?
他の犯罪者とは、多くが自己の犯罪を認識してしてはならないというルールを破って重い罪を犯すということを前提に犯行に及ぶ。怒りなどの感情によって行う場合もあるけれど、そのときも殺人という罪の存在を忘れているというわけではなく、それを前提にルールを破るという感情を優先したといえ、いずれにしても人を殺すという認識が存在することに変わりはない。

しかし、佐世保の事件では被害者の遺体状況をみてもかなり悲惨な状態で、しかし加害者は被害者に怨みはないという。
それは、本当に遺体をバラバラにしてみたいという興味心のみで行ったようにも思える。
そうすると、彼女にとって「人」というものの価値観は虫や動物の延長で、虫を殺しても人は殺してはいけないというような感覚ではなかったのかもしれない。世の中ではそんなルールがあるけれど、そのルールは彼女の世界では意味不明なものだったのかもしれない。

例えば、人型のアンドロイドができて、そのアンドロイドに人と同じような感覚を覚える人は出てくるかもしれない。これはなんとなく理解できないでもない。ペットすら親子同然に思えるのならば、人と同じ容姿で何ら客観的には人と変わらない、アンドロイドという違いも識別できないレベルならばなおさらだろう。

その逆だと考えれば、彼女の行為は彼女の中ではそれほど悪い行為というわけではなかったのかもしれない。
つまり、人の形をした動くマネキンがたくさんいる世界に人間は自分だけ。人間みたいなマネキン、いやマネキンみたいな人間がいるだけで、そのマネキンみたいな人間に対して何の感情も共感も覚えることはない。そういう感覚の中、ただマネキンの体内をバラバラにして見たかった。そういう感じだったんじゃないだろうか?

それでも殺したのが人間ならば、「人間だろ!?」となるのが普通なんだろうが、彼女にはそれが通用しないんだろう。人間だけど何?みたいな感覚。

話が通じない人だって感じた経験のある人は少なくないと思う。学生にはそういう経験したことのない人もいるかもしれないけれど。

話が通じない原因は、お互いの思想、世界観、感覚、気持ちなんかが違うところにあるんだろうと思う。
自分ならこう言われればこうするのに、みたいなことを前提に話をする。しかし、相手は反論に終始する。議論は平行線。
しかし、お互い共有できる部分があれば、それを前提に譲歩し合ったり、相手の気持ちに納得できたりするもんだ。納得できれば引くこともできる。

これは社会のルールでも同じだろう。ルールによって人の行動等に制限が加わる。けれど、それには理由があるからその制限が正当化される。そのことを理解して、それを人の集合体が共有することによって、それが共通認識としての価値観を共有し、その下でルールを守る社会が形成される。
しかし、社会において共有する(べき)価値観を共有できない、しかもそれとは相反する価値観を持ってしまうと「社会のルール」が通用しない。

そこで、PSYCHO-PASSの槙島を思い出す。槙島は平気で人を殺す。しかし、シビュラシステムでは犯罪者と認定されない。
刑法でいうところの違法性の意識の話にも共通するかもしれない。そこでいう「違法とはなんぞ?」というとてつもなく難しい話は置いておいて、例えば、社会が間違っていて自分の考えが正しいという思想の持ち主が国会議事堂でテロをするような確信犯の場合、本人自身は正義を行っているという感覚ということもある。
まぁ日本ではそこまでやる人はいないけれど(麻原彰晃?)、そんな正義の感覚でもないけれど、(人型の)虫を殺した感覚であれば、他の犯罪者との認識とは違うんだろう。

その認識が正しいのであれば、この佐世保の惨劇をどうすれば回避できたのだろうか?

そもそも、彼女をそういう価値観にした環境があるんだろうと思う。
しかし、それをただ環境の一言で済ましてはいけない。その環境に置くことができるのは親であって、やはりその親が第一次的な責任があるだろう。
もちろん、学校で起こったことなんか、同級生、先生なんかの影響もあるかもしれないが、それでも回避可能性は十分あったと思うし、それを前提に考えると結果回避義務を負うべきは親なのは間違いない。

まぁ、社会のルールとか価値観とか規範とか、そんな抽象的なことを言ってもあまり意味はなくて、要は「親の教育」というやつ。やったらダメなことはダメだと怒る。とういった刷り込みがなければ、社会のルールなんて身につかない。そういった当たり前のことをすることが大事なんだろうと思う。
言うは易く行うは難しなわけだけれど、親の最低限の責任ってそんなもんだろう。最低限、社会に適合できる能力を身につけることが最優先だろう。
「個人の人格形成は、一定の知識・教養を身につけ、各人の能力を開花させる過程を通じて行われる」(野中=中村他共著・憲法Ⅰ516頁)とか言われるけれど、そもそも社会に適合する能力(価値観)を身につけた上でなければ、どんなに知識を増やしても反社会的な人格形成によって罪を犯すリスクを排除できない。
いったん人格形成されると、それを是正するのは至難の業だ。価値観を根底から覆すことは難しい。

酒鬼薔薇事件でも、少年には治療が必要ということで、主治医らを親の役割を担当させて疑似家族を作り上げる治療体制を組んだり、少年の親も協力して治療に向けて努力したらしい。それが具体的にどういう目的でどういう内容なのかはわからないけれど、少年の価値観を社会に適合できるように矯正するものだったんじゃないかと思う(ちなみに、この更生プログラムは国家の威信をかけたものだったという)。

色々、思うところを縷々述べたけれど、こういう異常者とみられる人の価値観も、この多様性のある世界では存在し得るものという前提であるべきだと思う。でなければ、適切な措置を講じることも不可能だろう。
とはいえ、難しい話だ。価値観や感情の部分をコントロールすること自体難しい。それが他人によるものとなると、なおさらだ。
性犯罪者なら去勢すればいいかもしれないが、人の内心の問題は本当に難しい。
刑罰が現行法のように生命、自由、財産に対する罰しかないことからも明らかで、人の価値観を矯正することは罰の本質には少なくとも制度上なっていない(保安処分の導入について議論があるところだがあまりこの議論は滲透していない)。

人権の問題なんかもあって、色々頭の痛い問題。
でも、昔から常々指摘していることでもあるけれど、生命系として死刑があるのだから、治療という名の洗脳もあっていいんじゃないかと思う。洗脳というのは言い方が悪いけれど、教育なんて社会生活できる能力を身につけるための洗脳の部分もあるわけで、表現はどうでもいいけれど、価値観を一定の限度で矯正する必要があることを正面から肯定すべきという議論があってもいい。
もちろん、その範囲は必要最小限度であることが前提だし、どうやってその範囲を具体的に決めて、どうやって矯正するのか?という話もあって、議論は進まないかもしれない。
とはいえ、議論の方向性を示して、そのための取り組みはしていいと思う。池田小学校事件では、何の罪もないこどもたちを8人も殺されているが、加害者宅間(旧姓)守は公判で以下のように語っている。

わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に、生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。 あのガキが8人死んでくれたから、 俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!!

詳細については、附属池田小事件 - Wikipedia参照

個人的には、こんなクソ野郎はさっさと死刑されて良かったと思ってるけれど、死刑廃止論者の人でこんなクソ野郎でも社会復帰の余地を与えるとするなら、絶対にこんな罪を犯さないように人格を変えるための洗脳する刑罰なんか主張する人がでてきても良さそう。
まぁ人権問題とか色々言って反対派のほうが多いんだろう。国連もそんな刑罰はほっとかないだろうな。
それは正解かもしれない。しかし、もう少し色々考えてもいいと思う。シビュラシステムのような制度がある世界もメリット・デメリットがあって、例えばそういう制度があったら池田小学校事件の加害者みたいなクソッタレのために児童8人は死ななかったかもしれないのだから。
これはメリットだけれど、そのため理不尽に犯罪者(潜在犯)にされるリスクがある。本当は罪を犯さないかもしれないのに、強制的に自由を奪われるリスク。これでは冤罪事件と同じだ。

ただ、シビュラシステムのような制度の場合、未来が予測できるわけではないから、実際に罪を犯しただろうといえるのかはわからないというところに、結局、リスクの面をカバーできない部分がある。アニメPSYCHO-PASSでは、そこすらも問題視する余地がないほど、信用性のあるシステムとして成り立っているというところが基礎にある。

まぁ刑罰ではなく、保安処分としてこの議論はあってもいいんじゃないかとは思う。刑罰は罪を行った者のみにしか適用できないという基本を前提にしつつ、保安処分を活用して犯罪を未然に防ぐ社会はあっていい。保安処分とは、犯罪行為を行う危険性がある者を対象に、社会の保安と本人の治療・改善を図るために加えられる処分をいう。詳しくは保安処分 - Wikipedia参照。

思いつくことダラダラ書いてたら10頁弱のレポートなみのボリュームに(´・ω・`)
司法試験と関係ないことばっか┏○)) サ──セン!

論文書く練習します。











話は変わるけれど、加害者の名前は公表されないのに、被害者の名前が連日のように報道されるのはなんか違和感があった。別に加害者の名前を晒せとかそういうのではないが、なんか違和感が。